意地悪な紅(ルージュ)


 彼は、ちっとも「イイオトコ」じゃない。
 どっちかと言えば野暮ったい、目立たない、地味な感じ。
 なのにどうして好きになったんだろうって、何度思い返してもキッカケがわからない。
 学年が違う、出身校も違う、サークルも違う、何もかもが違う。
 それなのに気が付いたら目で追ってた。いつもいつも。
 大学の広い広い構内で、何度もすれ違う偶然に感謝してた。
 そして想いが実ったとき、私はこれが永遠に繋がる恋なんだって確信してた。
 理由なんかない、根拠なんかない。
 予感にも似た直感、ただそれだけ。

「いらっしゃいませ」
 初めて引いた扉の向こうは、予想した通りのオトナの世界。
 艶やかなカウンタ、背の高いスツール、煙草の煙、聞き慣れない音楽。
 白のシャツに黒のベスト、濃い髭となでつけた髪、強面だけれど優しい声。
「よろしかったら、こちらの席へどうぞ」
「あ、あ、はい」
 どこに座れば良いのか戸惑ってしまう私を、誘う手。
 生まれて初めてバーという場所に飛び込んだけれど、やっぱり独りでは心細い。
 ……彼にエスコートされたかった。
「こちらが、メニューです」
 彼のポケットからこぼれたショップカードと同じデザインの黒い表紙。
 開いてみると、中には色とりどりのカクテルが並んでる。
 マティーニ、モスコミュール、ブラッディメアリ、スクリュードライバー、ジントニック……
居酒屋やカラオケでよく見かける名前も、このお店では全く違う輝きを見せてる。
 つまり、こういう世界が彼を磨いているってことなんだ、きっと。
 どうして良いかわからないまま、ページをめくる。
 見た目で選ぼうか、聞き覚えのあるカクテルにしようか。
 どれにしようかなかみさまのいうとおり、を始めようとした時に飛び込んできた名前。
「……オリエンタル・ルージュ?」
「甘いカクテルですが、よろしいですか?」
「えっ?」
 思わず口にした名前、どんなお酒なのか全然わからない。
「あまりお酒には強くないですけど、大丈夫でしょうか?」
「それでは少しだけ軽めにお作りしましょうか?」
「お願いします」
 見たこともないようなボトルから注がれるお酒、氷、グラス。
 何もかもが新鮮、まるでドラマか映画の世界みたい。
 写真よりも優しい赤いお酒は、長く細い指で私の目の前に置かれる。
「オリエンタル・ルージュです」
 少し緊張しながら、口にする。
 甘いオレンジの口当たり、ほのかに花の香り。
 今まで飲んだことがない上品な味に、びっくり。
「美味しい……」
「ありがとうございます」
 オリエンタル・ルージュ。
 これを、『彼女』は飲むんだろうか。
 あの、意地悪なルージュの持ち主は……

 彼が変化し始めたのは、いつからだろう。
 今年度に入ってから、お互いに仕事が忙しくなって今までみたいに頻繁には会えなくなって。
 やっと会えても、連絡がマメじゃない彼の態度にあたしが怒って、ワガママなあたしに彼が切れて。
 プチ絶交をしては仲直りして、また喧嘩して……なんてことを繰り返しているうちに。
 ふと、気付いた。
 大きな変化じゃない、ちょっとした場面で彼が洗練されてること。
 ハンカチをきちんと持ち歩くようになった、穴あき靴下なんか履かなくなった、背広がちょっとステキになった。
 デートの時に遅れなくなった、選ぶお店が少しお洒落になった。
 キスの仕方も、抱き寄せ方も、囁く言葉も。
 なんとなく、が確信に変わった時になって、愚かなあたしはようやく理解した。
 ホカニオンナガデキタンダ。
 しかもそれは、多分、年上。
 彼は年上で手慣れたオンナによって、磨かれている。
 そう感じた瞬間に、あたしは心の底から怖くて、怖くて、怖くて。
 どうしていいかわからない、会えない、でも会わないと自然消滅してしまう。
 心が右往左往大暴れしたけれど、実際のところ明らかな痕跡なんてひとつもないから。
 だからあたしの妄想、かもしれない。ううん、きっとそうなんだ。
 だって逢う頻度は変わらないもの、だからあたしをキライじゃない。
 そんな風に繰り返し自分に言い聞かせて迎えた昨日。
 ルージュの跡が、あたしをどん底に突き落とした。
 それが、いかにもって感じのどぎついピンクだったなら、まだマシだった。
 紅いろの、落ち着いた、でも艶やかなルージュ。
 彼のワイシャツ襟元に残された微かなキスマーク。
 今まで全く見せたことのない、『彼女』の痕跡に。
 取り乱したあたしの結論は、笑えるくらいにありきたりなものだった。

「結婚して、今すぐにでも約束して」
「なんだよ、またその話かよ」
「だって、不安なんだもん」
「結婚なんて、いい加減に決められないだろ?」
「いい加減って、何? これだけ付き合ってるのに結婚はできないってこと?」
「そうじゃなくてさ、こういう喧嘩みたいな話で人生の重大なことを決めるのは」
「別れるなんて、絶対に厭」
「そんなこと一言も」
「じゃあ、結婚してよ。結婚するって約束して」
「……ワガママすぎるって」
「どうしろって言うの? このまま、ズルズル恋人で居るつもりなの? いくつになっても、
こんな曖昧な関係のままって言いたいの?」
「そんな極端な」
「お願いだからっ」
 幾度も、繰り返した。
 泣いて、縋って、脅して、試した。
 最後は彼の「真剣だよ、大切だよ、でも今は約束できない」って言葉になだめられてしまったけれど。
 彼の落ち着いた物腰も、決して声を荒げないことも。
 今のあたしには、全てが『彼女』を感じさせて不安にさせる。
 信じられない、許せない。
 できることなら一生隠し通して欲しかった。
 『彼女』の気配を見せて欲しくなんかなかった……ねぇ、もしかして。
 わざと、なの?
 今までのカンペキさから考えても、うっかりだなんて思えない。
 だとしたら『彼女』は、わざとあたしに気付かせたの?
 あの、意地悪なルージュの跡で……

「お口に合いましたか?」
「はい、とても」
 『彼女』のルージュに比べれば、随分優しいオリエンタル・ルージュ。
 昨夜のキスマークを、飲み干すつもりでグラスを空けて。
 さぁ、彼の家へ向かおう。
 彼の心を繋ぎ止めよう。
 もう愛情なのか執念なのかわからなくなっていることなんか、気付かないフリで。
 あたしは、席を立つ。
 この街に、もうすぐ訪れる寒い寒い雪の季節。
 それまでに決めてもらわなきゃ。
 あたしとの、永遠を選ぶか。
 意地悪なルージュの『彼女』を選ぶか。


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