2004.03.30
night in, night out 夕海
1
「いらっしゃいませ」
そこには、いつも彼が居た。
金曜の夜も土曜の夜も、思い付いて立ち寄った夜でも、彼は同じ席に居た。
L字型のカウンタの右奥、短い辺の壁側。
いつもショットグラスを傾けて、必ずひとりで。
他のお客さんの会話の端々に、ふと笑みをもらしながらも、決して会話に参加することはなく。
静かに、まるで自分の部屋のように憩うひと。
マスターの気配りで初対面のお客さんと話す機会も何度かあったけれど。
彼には、話しかけることができないまま。
気になりながら見ているだけ、だったのに。
今宵店内は、ほぼ満席。
空いているのは、彼の隣だけ。
「あ、どうぞ」
「……はい」
低くて通る、発声がしっかりした、声楽家を連想させる声。
たったひとことなのに、響いてくる声。
初めて重ねた視線は、優しく紳士的。
「じゃあ……シンガポールスリングを」
「かしこまりました」
右肩が熱いのは、気のせい?
いつになく姿勢良く腰掛けて、5ミリくらい背が伸びてる私。
彼は構わず、いつものように。
グラスを少しずつ、空けてゆく。
案外華奢な指は、グラスを持つ時も煙草を持つ時も魅力的。
動くたび、ほのかな煙草の臭い。
離れた席では気付けなかった、彼のこと。
見えて、感じて、どきどきする夜。
2
「珍しいですね」
私が隣の席に着くなり、彼が口を開く。
そのことの方が珍しいから、私は一瞬動きが止まる。
中途半端な姿勢で、まじまじと見つめてしまう。
「ああ、すみません」
「いえ」
隣に座るのは、2度目。
けれどちゃんと会話するのは、初めて。
「ええと、いつもどおり、シンガポールスリングを」
「かしこまりました」
相変わらず、彼はショットグラス。
琥珀色の液体を、ゆっくり楽しんでいる。
「さっきは、唐突にすみませんでした」
「ああ、いえ。こちらこそ」
何が珍しかったんですか? 聞けない私に。
気付いたように、彼は言う。
「珍しいですよね、月曜に来られるのは」
「ええ……確かに」
答えてから、気付く。
なぜ、知っているの? 私がだいたい週末に来ること。
どうして、気付いているの?
確かに、彼はほぼ毎日のようにここに居るし。
お客としては、私よりも随分先輩なのだろうとも思う。
でも、どうして?
問えないけれど、聞けないけれど。
彼にとって私が「他のお客」でしかない、という訳ではなさそうで。
ほのかに私の心が、温まる夜。
3
「珍しいですね」
「ああ、こんばんわ」
彼が遅刻した。
別に約束していた訳ではないけれど、いつもこのカウンタに居る時間なのに
彼が居なくて。
不思議と落ち着かない気分で、彼の指定席の隣で待ってた。
そう、待ってた。
まるで、憧れの先輩をこっそり待ち伏せする中学生みたいに。
どきどきしならがら、待って居た。
「じゃあ、今夜は……ラガヴーリンを」
「かしこまりました」
何度か、隣り合ううちに。
少しずつ話ができるようになったけれど。
こんなふうに、少し落ち着かない彼は初めて。
「少し、酔ってまして」
「接待ですか?」
「まぁ、そんなところです」
私には未知の液体で満たされた、ショットグラスを軽く持ち上げ。
気持ちで乾杯を交わした彼の、指に。
初めて、見た。見付けてしまった。
左手の薬指、いつもは何もないその場所に、一番見たくないものを見た。
「指輪……」
「ああ、これですか?」
思わず私の口からこぼれた言葉を、いぶかしむでもなく、彼は言う。
「接待の時には、必ず妻が持たせるもので」
「奥様が……」
私より、明らかに年上。
独身だと思ってた訳ではないけれど。
他人のものだと思い知らされ、打ちのめされて。
微かな痛みを、感じた夜。
4
「ウィスキーは、お嫌いですか?」
気が付けば、私の指定席は席は彼の隣。
当たり前のように、そこへ座り。
当たり前のように、彼と話す。
ただそれだけで、嬉しくて。
憧れの先輩に近付いた高校生みたいに、心が弾む。
「いいえ、そうでは無いですけど」
「けど?」
心持ち、打ち解けた会話になっていることに。
気付いてひとり、幸せな気分。
「酔うんです」
「酔う?」
「どんなお酒よりも、確実に深く酔うんです。だから自重してるんです」
特別な時には、贅沢をしますけど。
そんなつぶやきが届いたらしく、彼は少し笑顔を見せる。
「飲まず嫌いの女性が、まだまだ多いですから。そうなのかと思ってました」
「そうですね、どうしてかしら……友人もあまり飲みませんね」
「やはり、カクテルの方が多いですか?」
「ええ、そもそもウィスキーなんてどれも同じだと思っているのかも」
「うちの妻もね、ダメなんですよ。全く興味の欠片さえないみたいでね」
だからつまらない。
ぼそりと聞こえた本音を、拾って。
痛みと複雑な喜びを感じる夜。
5
「どうされたんですか?」
いつもより、ほんの1時間遅れでたどりついたいつもの席には。
見たことも無いほど、酔った彼の姿。
普段なら決してもたれたりしない、右側の壁にべったりと寄り掛かっている。
私の視線は、マスターの途方に暮れた顔と、彼の背中を5往復。
「あの、どうかされたんですか?」
「……申し訳ない」
かすれた声には、いつものような響きがなくて。
重なる眼差にも、光が無くて。
まるで、別人。
いつものショットグラスの代わりに、見慣れない大きなグラス。
この香りは、ビール?
あまりにも普段と違いすぎて、隣に座っていいのか戸惑うくらい。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「みっともない、ですね」
「いえ、そんな」
「…………妻が、今朝、家を出たもので」
言葉が、出ない。
ただ、無意識のうちに。
彼の肩甲骨の辺りを、とんとんとん。
自分の鼓動と同じリズムで、たたいていた。
彼は軽く目を閉じ、しばらくそのまま。
何も言わず、ただ、そのまま。
奥様が出ていったことに動揺しているのは、明らか。
虚勢を張ることさえできないくらい、打ちひしがれているのも確か。
それでも、いい。そう思った。
みっともないとか、恥ずかしいとか。マイナスな感情は全くなかった。
そして、気付く。
私にとって、彼はもう。ただの憧れじゃなくなってること。
大切なひと、になっていること。
だから目を背けたりしない。
隣に座り、何も言わずに。
ただひたすら寄り添う夜。