2004.02.07

魔法の薬            夕海


「よっ、久し振り」
 寒い寒い2月14日の夜。
 バーテンダに軽く会釈して、彼はカウンタの入り口近くに腰掛ける。
 そして何も言わないうちにグラスに注がれ、渡された琥珀色の液体を。
 ごくり、とひとくち。
 浮かぶ笑みは、極上。 
「飯は?」
「済ませた」
「チーズ、どう?」
「欲しい」
 笑みの消えぬ彼に、バーテンダはいぶかしげに話しかける。
「なに、いいことあった?」
「なんで?」
「緩みっぱなしだよ、顔」
「そうかぁ?」
「そうだって」
 バーテンダによって、白い皿には手早くチーズとクラッカーが盛られ。
 さりげなくパセリを添え、同じものが3枚。
 ひとつひとつを、丁寧にサーヴし最後に彼の前へ。
 その時にだけ、覗き込むようにして顔を見る。
「本当に、近年まれに見るご機嫌だよ」
「そっかな」
「白状したら?」
 存在をアピールするように響くJAZZ。
 その音波に揺らされる、煙の波。
 思い出したように煙草をくわえた彼の煙が加わり、さらに厚みを増す。
 揺れて、香る。
 空いたグラスは手際よく下げられ、同じウィスキーで満たされ、戻る。
「今日、ってことはさ」
「ん」
「もらった訳だ、チョコレートを」
 ふざけたような笑みを残し、バーテンダは他の客のためにシェイカーを手にする。
 その小気味よい音を聞いているだけでも。
 そう、やはり彼は。笑顔なのだ。
 恐らくは無意識に、こぼれる笑み。
 バーテンダは他の客との会話の切れ間に、すかさず彼の前へ。
「で? いい加減種明かししろよ」
「何を?」
「ここに来たってことは、オレに話したいんだろ?」
「そうかぁ?」
「そうなんだって」
 口は動かしながらも、グラスを洗い、磨く。棚に並べ、シンクを軽く拭く。
 そんな作業ひとつひとつが様になるバーテンダを、見るでもなく眺めて。
 彼は再び、グラスを空ける。
 外の寒さが想像もつかないほど、暖かく賑やかな店の中で。
 彼はつい1時間ほど前のことを繰り返し思い出している。
 そのたびに、笑顔が浮かぶ。
「こら、いいかげんにしろってヒロキ」
「悪い」
「言ってみろよ、これでも口は堅い方だろ?」
「時と場合によるけどな」
 幸い、というか残念ながらというべきか。
 店内はちょうどよい人で満たされ、バーテンダは余裕を持って仕事ができる。
 これ以上は拒めない状況。
「たいしたことじゃない」
「勿体つけんなよ」
「コレ、もらったさ」
 小さな、包み。上品な深紅の柔らかなラッピングペーパーに、純白のリボン。
 わざとぞんざいに、つまむよう持ちあげて笑う。
「そんだけだよ」
「それだけかよ」
 オトコが30過ぎてそれしきでニヤニヤしてんじゃねぇよ。
 バーテンダは、そう言いかけて。ふと口をつぐむ。
 しげしげと彼を見ているうちに、バーテンダの顔にも笑みが浮かぶ。
 屈託のない、無邪気な笑顔だ。
「例の、惚れた彼女からって訳だ」
「ああ」
「良かったな、ヒロキ」
「まぁな」
「それでそんな締まりない顔してんだ」
「そうか?」
「そうだって」
 鏡見て来いよ。
 そう言い置いて、新しい客のオーダーに応えるために酒を吟味する。
 言われた通りにするのは癪なので、彼はしばらく煙草を楽しむ。
 幸せだ、と思う。改めて感じる。
 それがさっきの、ほんの小さな贈り物に起因するとは思えない。
 だからと言って、この店で飲む酒と煙草と心地よいジャズのせいでもない。
 それだけでは、ない筈だ。
 飲み続ける琥珀色の液体は、酔わせるために存在するのに。
 実は彼を、冷静にさせる。まるで魔法の薬のように。
「まだ、飲むか?」
「いや、今夜はやめとこう」
 悪酔いしそうだ。
 彼の言葉に、バーテンダは吹き出しかけて、踏み止まる。
 仕事用の顔で彼に背を向けてレジに立ちながら、密かにまた笑う。
 本当に楽しそうに、本当に嬉しそうに。
「ありがとうございました」
「ども。また寄る」
「せめて月イチで来いよ」
「ああ」
「今度は是非、彼女とご一緒に」
 あくまでも、営業スマイルのバーテンダに。
 彼は笑いをこらえて告げる。
「おまえが休みの時にな」
 扉を開けると、急速に冷える。
 襟を立て、マフラーを巻く。
 ついさっき、彼の物になったばかりの。温かで柔らかな濃茶のマフラー。
「マフラーなんて、何年ぶりだよ」
 思い出したようにつぶやき、それはまた笑顔に変わる。
 そしてためらうことなく、吹雪の中へと足を踏み出した頃。
 バーテンダは、彼のために出していたボウモアを定位置に戻す。
 次に彼に出す時に、隣の彼女は何をオーダーするだろう。
 そんなことをふと、考えながら。