2002.02.07
紅い夜
夕海
マンハッタンのチェリーは、食べるべきか否か。
飲むたびに、いつもこっそり悩んでいる。
結局いつも、はしたなく見えない程度に思いきりよく、ひとくちで食べてし
まうのだけれど。
今夜は、愛らしいシルバーのピンに刺されたチェリーを、グラスの中で無意
識に転がしている。
落ち着かない、というよりは動揺している。
そう、ついさっきフラれたことで。
みっともないほど動揺している。
「マンハッタンはカクテルの女王と呼ばれてるんだよ」
そんな言葉で私に勧めてくれたのが。
何人目のオトコだっかたは覚えていない。
けれど、その鮮やかで上品な赤と、それでいて甘すぎないすっきりした後味
が気に入って。
バーではそればかり飲んでいる。
オトコが変わっても、それだけは変えられなかったし。
このバーを教えてもらってからは、更に大切な一杯になった。
独りでも、飲める。
独りでも、酔える。
仕事帰りメイクを直すのが、彼氏のためでなく、マンハッタンのためになっ
て半年。
私は、恋に落ちた。
ここしばらく、彼を伴ってカウンタに座ってた私なのに。
今夜は独り。どう見てもひとり。
「いつものコは?」
なんて野暮なことは、口にしないマスターだけど。
視線が心持ち優しい分だけ、余計に痛い。
本当は、いつものように。
ここに二人で腰掛けて。
美味いお酒を堪能した後で。
一晩中愛し合う筈だったのに。
そのつもりで、居たのに。
7つ年下の、部下。
とりたてて秀でたところなど、ないように思ってた。
あの夜、ほんの気まぐれで重ねた唇が。
今更ながら、悔やまれる。
あの唇の熱さに酔いすぎて。
こんなにも囚われている。
彼女が居ることも、結婚を迫られて困ってることも。
このバーで聞いたばかりだったのに。
何が私の背を押したのかはわからない。
何が彼の唇を動かしたのかはわからない。
せめてそこで踏み止まれば………いいえ、それでもきっと同じこと。
誰にも知られないように。
彼にも知られないように。
辛うじてプライドが私を支えていた。
恋と呼ぶことさえ、口惜しい想い。
「結婚、決まったさ」
無邪気な笑顔だった。
悪意のカケラさえ、見えない。
「………そう」
あんなに厭がってたくせに。
先週末も、そんなこと夜通し言い続けたくせに。
「だから、もう、こうやって会うのは」
「やめたほうが、いいわね」
声が震えて、視線さえ合わせられてない私に気付かず。
彼はさっぱりと、言った。
「今まで、ありがとう」
そんな言葉で終わらせてしまうの?
そんなことはおくびにも出さずに。
できるだけ余裕の笑顔で、言葉を返す。
「さよなら」
「マスター、マンハッタンを」
もう一杯。
いつものように言いかけて。
涙がこぼれそうなことに気付く。
甘さに、負けてしまいそうだから、と。
チェリーはグラスに残したままで。
「カンパリ、お願い」
「かしこまりました」
同じ赤でも、苦い赤。
今の気分にぴったりだわ。
けれどマスターは何故かシェイカーに、カンパリを注ぎ。
グラスには、クラッシュアイス。
静かな店内に響くシェイカーの音。
「おまたせしました」
紅色、いつもより少しだけ優しい色。
今日のマスターの眼差のような柔らかさ。
口に含むと、苦く、そして、痛い。
「いつもより、苦味柔らかいでしょう」
「………ありがとう」
涙を、飲み込むのにちょうどいいお酒だわ。
そんな思いでグラスを揺らす。
寒い寒い冬の夜は。
失くした恋を消化させるには長く。
新しい恋を始めるにはあまりに短い。
今はまだ、もう少し。
チェリーはまだ、食べられない。