2002.12.04
SWEET MOON
夕海
1月半ば、正月気分もようやく抜けた土曜日。
ますます冷え、夜空の星が冴え渡る札幌の夜。
そのBarにバーテン見習いとして入って2ヶ月の沢渡は、余裕がようやくできたのか。
笑顔で、控え目にあくまで客の邪魔にならない程度に会話に参加し。
その替わりマスターは、ほとんど口を開くことなくシェイカーを振り、グラスを磨いている。
それは、いつものような週末の夜。
そんな中、恐る恐るといった風に扉を開け入って来たのは、まだどこかあどけない青年。
戸惑いながら入ってきた彼の後ろには、更にためらいがちな女性。
新しい客に気付いた沢渡は、できるだけ柔らかに声をかける。
「いらっしゃいませ、こちらの奥へどうぞ」
カウンタの端、奥のスツールに腰掛けると、彼は少し落ち着いたようだ。
けれど、足が床に届かない彼女は、まだどこか不安げな表情のまま。
「僕は、ジントニックを。みゆ、何がいい?」
「ええと、それじゃあスプモーニを」
「かしこまりました」
沢渡はカウンタの中に戻り、ふたりに温かなおしぼりを手渡す。
マスターは、グラスを取り出し静かにオーダーに応えている。
落ち着いた店内に気をつかってか、ふたりの会話は静かで遠慮がちだ。
「京都、どうだった?」
「ああ、鞍馬に行ったよ。結構スゴイのな、あそこって」
「叡山電鉄で行ったの?バス?」
「電車。オレ、降りたらすぐ鞍馬寺かと思ってたけど、違うのな」
どうやら、つい最近京都から戻ったらしい彼は、少し上気したように話す。
尋ねている彼女の方は、まだどこか表情が硬い。
この場に慣れない緊張感なのか、それとも他に何か要因があるのか……
「お待たせしました、こちらがジントニック、こちらがスプモーニです」
「あ、はい」
沢渡が差し出したグラスを、おっかなびっくり手にしたふたりは。
乾杯しかけて、ためらう。
何に乾杯するの?といった風に彼を困った目で見る彼女に。
彼はイタズラっ子の笑顔で言った。
「それじゃ、オレの博士課程合格を祝って、乾杯!」
客たちの会話を邪魔しない程度に流れるJAZZ。
耳を傾けながら、彼と言葉を交わす彼女。
どうやら彼はこの春から、京都で暮らすことになるらしい。
そして彼女はこの街で、働いているようなのだ。
その淋しさあるいは心細さが、彼女から笑顔を奪っているのかどうなのか。
彼女は、どこか頼りなげな表情のままだ。
「みゆは、今何を考えてる?」
口数の少ない彼女を気遣うように、彼が問い掛ける。
彼女の唇は、戸惑ったように、開きかけては、閉じる。
「みゆ?」
「あ、うん」
「ちゃんと、言えよ」
「えっ?」
彼は、真っすぐに彼女をを見つめる。
「オレが、京都行く前からヘンだったよな。みゆ、何か言いたいことがあるんだろ?
ちゃんと、言ってくれなきゃわかんないよ」
「う……ん」
彼女の瞳が、涙でうっすら濡れ始める。
言葉に出せないもどかしさが、まるで涙となって溢れるように。
それを察してか、それとも単なる偶然なのか。
マスターは、彼らにそっと声をかけた。
「何か、お作りしますか?」
救われたように、背筋を伸ばした彼女。
彼はそんな彼女を心配そうに見遣りながら、言った。
「あ、それじゃ僕は同じものを。みゆ、どうする?」
「ええと、あの……」
彼女は慌ててメニューを開く。
その肩や視線に感じられる緊張を、ほぐすようにマスターは言う。
「ご希望があれば、お作りしますよ」
彼女は、ふわりと力を抜き、少し考えてから答えた。
「それじゃあ、甘めのものをお願いします。アルコール控え目で」
「炭酸は苦手でしょうか?」
「いいえ」
「かしこまりました」
彼女を見つめていた、彼の視線が、ふっと緩む。
「ごめん、こんな聞き方じゃ何も言えなくなるよな」
「ううん、ごめんなさい。いつも黙ってしまうから、だから伝わらないんだよね。わかってるのに、ちゃんと言えなくて」
「ゆっくりで、いいよ」
少し驚いた表情で、彼女は彼を見つめる。
照れたように、彼が微笑む。
この店に来て初めて、柔らかな空気がふたりを包んだ。
「おまたせしました、こちらがジントニックになります。そして、こちらを」
東雲が彼女の前に置いたのは、甘い香りのカシスのカクテル。
「あの、これは?」
「スウィートムーン、といいます」
彼女は、少し緊張した様子で、こくん、とひとくち飲んだ。
「おいしいです、飲みやすいですね」
「ありがとうございます」
東雲の笑顔に、あるいはそのカクテルに勇気付けられるように、彼女の唇からは、滑らかにコトバが出てきた。
「あのね、ユウキ」
「うん」
「私、一緒には行けない。もちろん、ユウキと離れるの不安だけど、でもね今すごく楽しいの。学校で教えてる時と違って、何て言うか、充実してるの」
「うん、みゆがすごく楽しそうなことも、頑張ってることも、わかってた」
「ユウキ、今の仕事は向こうでもできるって言ったこと、覚えてる?」
「えっ?」
彼は驚いたようで、目を見開いて黙ってしまう。
そんな彼を見る彼女の表情は、微かな諦め。
「それが、ショックだった。私が今やりたいことは、タカハタさんのところじゃなきゃ……Qingでなきゃできないの。だから」
「ごめん、みゆ。ひとついいかな」
向き直り、正面。彼は真っすぐに彼女を見る。
その視線は、まるで彼女を突き刺すような厳しさで。
彼女の背中がまた緊張する。
「それは、Qingっていう塾だからできるっていう意味?それとも、そこの経営者っていうか上司っていうか、そのタカハタってひとと一緒じゃなきゃできないって意味?」
彼女は………答えない。いや、答えられない。
その瞳は、下に向けられたまま。
そらすことなく、真っすぐ彼女を見つめ続ける彼の視線を、痛いほど感じながら。
グラスを、ぎゅっとつかんで。
スウィートムーンを、こくんとひとくち。
一度伏せた瞳を持ち上げ、彼を見据えて言った。
「そうかも、しれない」
「………わかった」
彼の声に表情に感じられる失望と怒り、そして痛々しさ。
彼女もそれを察したように、再び瞳を伏せる。
戻ってしまった重い空気に負けそうになりながら、ようやく彼は口を開く。
「しばらく修論にかかりきりだから会えないけど。落ち着いたら、連絡する」
苦い思いでふたりを見送ったマスターは、彼女の残したグラスを手に取った。
「………ちっとも甘くない酒に、なってしまったな」
けれど、夜はまだ終わらない。
しばし手を止めたマスターも、気を取り直したように。
次に来る客を迎えるべく、グラスを洗い、磨く。
彼らがいつか、またふたりで。
笑顔で訪れる、そんな日を願いながら。